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ようこそ「鹿鷺山 笠置寺(しかさぎざん かさぎでら) ホームページ」へ。
笠置寺は高さ15mの大きな岩に刻まれた「弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)」を御本尊とする真言宗智山派のお寺です。
山内には、東大寺のお水取りの起源といわれる正月堂をはじめとして多くのお堂や、巨石が点在する奈良時代からの修行場があります。

「自然に包まれ、自然を楽しむ」
大自然に囲まれてリフレッシュする、笠置寺にお越し下さい。

天智天皇の皇子が鹿狩りに訪れ、災難に遭う。 天人の手によって、弥勒菩薩が刻まれる。 正月堂、十三重塔、礼拝堂などが描かれた、創建当時の笠置寺。 東大寺 良弁和尚、笠置山の龍穴で雨乞いの儀式を行う。 東大寺 修二会(お水取り)の起源とされる、観音悔過の法要が行われる。














奈良時代(寺院の創建)

笠置山の信仰の歴史は古く、弥生時代にはすでに山中に点在する巨石を神として崇拝する「磐座(いわくら)信仰」が行われていました。
やがて奈良時代になると巨石には仏さまが刻まれ、この仏さま(磨崖仏 まがいぶつ)の礼拝堂や多くの寺院が建立され、現在の笠置山と笠置寺の原型がつくられました。
この頃の笠置山には多くの南都の寺院の僧侶が訪れ、特に東大寺とは、現代に続く「お水取り」の起源とも言われる、良弁和尚の雨乞いと実忠和尚の観音悔過(かんのんけか)の法要が、笠置山の正月堂で始まったと言われています。

興福寺から解脱房貞慶上人が隠棲された。 解脱上人により、般若臺が整備された。














鎌倉時代(解脱房貞慶上人の隠棲)

藤原家に生を受けた解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)上人(1155〜1213)は、興福寺において唯識思想を学び将来を有望視される方でした。
しかし、お釈迦さまへの篤い信仰心により当時の仏教会に別れを告げ、笠置山 般若臺(はんにゃだい)に居を移しました。
笠置山には、解脱上人が閻魔大王のもとへ行かれるお話や、笠置大僧正という名の鬼が訪れるという物語が残っています。
後に解脱上人は笠置山から木津川市加茂町の海住山寺に移られました。

戦場となった笠置山。 「南の木」後醍醐天皇が楠正成の存在を知る。 足助次郎重範が弓を射て、本性房が岩を投げる。「錦の御旗」がたなびいている。














南北朝時代(後醍醐天皇 元弘の戦乱)

弥勒(みろく)信仰の中心道場として栄えた笠置山でしたが、1331年8月南朝の後醍醐天皇が入山。9月29日までの約1ヶ月の間、鎌倉幕府軍との戦乱の舞台となりました。
この戦乱では、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)や楠正成(くすのきまさしげ)などが後醍醐天皇方の武将として活躍されましたが、全山焼き討ちに遭い、すべては焼け落ち、後醍醐天皇は井手町有王にて囚われの身となられました。
「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の 紅葉をぞ見る」後醍醐天皇が笠置山にて詠まれた歌です。

笠置寺の境内は笠置山の頂上あたり。周囲を囲む土塀などはありません。

本堂正月堂や弘法大師の大師堂。毘沙門天の毘沙門堂に収蔵庫。山頂に点在しています。

本尊は高さ15.6m×幅15mの岩に後背のみを残す弥勒菩薩が刻まれていた弥勒磨崖仏(みろくまがいぶつ)。一回り小さな高さ12m×幅7mの虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)のお姿も美しい伝 虚空蔵磨崖仏(でん こくぞうまがいぶつ)には手で触れていただいても結構です。

虚空蔵さまの左には、良弁和尚が雨乞いの儀式を、実忠和尚が弥勒菩薩の世界に入られたという千手窟(せんじゅくつ)。笠置山一番のパワースポットです。

その先にあるのが、生まれ変わりの胎内(たいない)くぐり。
岩のトンネルを抜けて、心身ともにリフレッシュ。約800mの修行場のスタートです。

修行と言っても大丈夫。小学生でもOKです。
雄大な景色を見たり、岩に触れたり。自然との一体感を感じるのが「笠置山での修行」です。

無事に一周回ったら、大師堂でお大師さまに手を合わせ、毘沙門堂にもお寄りください。

受付で和尚さんを見かけたら、お話でもどうぞ。お声をかけてください。

心休まる、楽しいひと時をお過ごしください。

山寺の和尚さんより

笠置寺略記



 笠置寺の創建は古く、すでに2000年前から笠置山の巨石は信仰の対象となっていた。
 このことは笠置山の中心をなす大岩石の前から弥生時代の有樋式石剣が発見されたことによってわかる。しかし実際に建物が建てられ人が住み着いたのは1300年前である。


 1300年前、東大寺の実忠和尚、その師 良弁僧正によって笠置山の大岩石に仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたのである。


 平安時代 永承7年(1052)以後、世の末法思想の流行とともに笠置寺の磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰を受けたのである。


 鎌倉時代 建久2年(1191)藤原貞慶(後の解脱上人)が日本の宗教改革者として、その運動を笠置寺から展開するとき、笠置山は宗教の山、信仰の山として全盛を極めたのであった。
 しかし元弘元年(1331)8月27日に倒幕計画に失敗した後醍醐天皇を当山に迎えたことにより、攻防1ヶ月、ついに笠置山は全山焼亡。


 以後、室町時代に少々の復興をみたが、江戸中期より荒廃。ついに明治初期に無住の寺となった。
 明治9年、丈英和尚狐狸の住む荒れ寺に住して笠置寺の復興に尽くすこと20年、ようやく今日の山容となったのである。


The short history of Kasagi Dera ( Kasagi Temple )



Kasagi Dera has a long history. About 2000 years ago,the big rocks of Kasagi Yama ( Mt. Kasagi )
were regarded as religious symbols by the people. Years ago, a part of a Yuhi-style stone sword was found in front of one of the big rocks. This paticular kind of stone sword presumed to have been used in the Yayoi Period.


About 1300 years ago, people gradually settled in the Kasagi Yama area. In the years that followed, Jiichu Wajou ( Priest Jiichu ) of Toudaiji Temple and his master Ryouben Soujou ( Great Priest Ryouben ) carved the images of Buddha on the face of the big rocks. Kasagi Yama became very famous as the heart of learning Buddhism.


During the Heian Period, after Eisho 7 ( the 7th year of Eisho, in 1052), Mappo Shisou ( the concept of Mappo ) spread all over Japan. Mappo Shisou is one of the Buddhist theories:2000 years after the death of Buddha, everything in the world will become worse and worse. The people of that time thought that the Mappo Period would begin in 1052. And the images of Buddha on the big rock in Kasagi Yama ( these images of Buddha are called Magaibutsu ) became the symbol of Buddhism among the people. At that time, these images were thoght to have been carved by God. Kasagi Yama became the place for spiritual training.


During the Kamakura Period, in Kenkyu 2 ( the 2nd year of Kenkyu, in 1191 ), Fujiwara Joukei ( later he was called Gedatsu Shounin ) launched a campaign to change of practicing Buddhism at Kasagi Dera. This was the most glorious time for Kasagi Dera in its history. Henceforth, Kasagi Yama became the important site of the campaign and became very popular among the people.


On August 27th in Genkou 1 ( the 1st year of Genkou, in 1331 ), Emperor Go Daigo, who attempted to usurp power from the Kamakura shougunate but failed, escaped into Kasagi Dera. For about a month, these was a battle between Emperor Go Daigo and the Kamakura shougunate. At the end, Emperor Go Daigo lost and retreated to Yoshino Yama. Only the burnt ruins of Kasagi Dera remained.


During the Muromachi Period, Kasagi Dera recovered a little, but in the middle of the Edo Period, it gradually deteriorated and at the beginning of the Meiji Period, no one lived in Kasagi Dera.


In Meiji 9 ( the 9th year of Meiji, in 1876 ), Jouei Wajou (Prist Wajou ) began to live in Kasagi Dera. He tried to rebuild the temple. After 20 years, his efforts fulfilled, Kasagi Dera was restored at last.


笠 置 寺 略 记

笠置寺的创建历史悠久、早在2000年前笠置山的巨岩以被作为信仰的对象。在以笠置山为中心的大岩石之前就发现了弥生时代的有樋式石剑。在1300年前随着居民的居住人数不断增加,建造了此寺。


1300年前东大寺的实忠和尚、和他的师傅良弁僧正在笠置山上的大岩石上雕刻了佛像后,使之以佛像为中心笠置山整体成为了一块大型的修炼场所,而且一直繁衍了下去。


平安时代永承七年(1052)以后随着末法思想的流行,笠置寺的大磨崖佛被世人称为天人雕刻,更加成为了信奉的对象。


鎌仓时代建久二年(1191)藤原贞庆后来的解脱上人作为日本宗教的改革者,在笠置寺开展了一系列运动,把笠置山作为宗教之山,信仰之山,使之迎来了它的全盛时期。
但是、元弘元年(1332)8月27日,推翻政府的倒幕计划失败后后醍醐天皇把笠置寺作为防御之地,经过一个月的抵御后以失败告终,同时也给笠置山带来了整座山烧毁的灾难。


以后室町时代虽然有了少许的复兴但是江户时代中期以后不断荒废,到了明治初期变成了无住持的寺院了。
明治九年丈英和尚号狐狸移住到荒废的笠置寺后全力开展了复兴运动,近20年后才有了今日的面貌。

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京都新聞 平成25年10月4日掲載
 Leaf(0102) 2013年12月25日発行 「京都・滋賀 パワースポットへ!」(抜粋)
SAVVY 2014年1月23日発行 「夢みるニッポン旅 京都の海へ、山へ」(抜粋)
京都新聞 平成26年2月18日掲載

京都新聞 平成26年2月25日掲載

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